金属錯体の色や磁気的な性質

金属錯体は、有機物と異なる点が多くあります。多くの有機物は無色であるのに対し、金属錯体はほとんど色がついているとか、不対電子を持っているがために磁石に引かれる常磁性化合物が多いとかの性質を見ればわかるでしょう。これらは、金属錯体のd軌道に存在する電子の性質によっています。d軌道の様子がどんなふうになっていて、その軌道の上に電子がどのように分布しているかについては、1900年代前半に編み出された結晶場理論によって明かになりました。ここではその結果を簡単に紹介します。

結晶場理論

  ルビーなどの結晶は、鮮やかな色がついています。ルビーは酸化アルミニウムにわずかにクロムが混ざったものであり、結晶中でクロム(III)イオンは八面体の中心に位置し、その回りには6つの酸素原子が存在します。つまり酸素が配位子となった6配位8面体錯体と考えることができます。クロム(III)は、単独で存在するときとは違い、回りに酸素があると特別な環境にあると考えることができます。この特別な環境を結晶場という。遷移金属イオンが単独で存在するときはその中の5つのd軌道のエネルギーは等しいが、結晶場中では配位子である酸素の影響によって、d軌道のエネルギーが等しくなくなるのです。

 このことは図のようにd軌道の形を考えれば理解できます。配位子がx、y、z軸の+と−の方向から中心の金属に向かって近づいてくるとしましょう。図に示すように最初の2つのd軌道(dz2とdx2-y2)は配位子の方向に向かって軌道が伸びており、この軌道の中の電子(負電荷)は、近づいてくる配位子の非共有電子対(これも負電荷)と作用してエネルギーが高くなります。しかし、残りの3つのd軌道は近づいてくる配位子と配位子の隙間の方向を向いているので、配位子の負電荷の影響を受けにくいのです。よって、最初の2つのd軌道は八面体の結晶場中ではエネルギーがかなり高くなり(このエネルギーをE1とする)、あとの3つはそれほど高くならない(E2)ということになります。なお、もしこのように決まった方向からではなくランダムに6つの負電荷が金属に近づいてくると、d軌道のエネルギーは一様に上昇してE0となるでしょう。そのような状況の時のエネルギーを直感的に考えると、E1はE0より高く、E2はE0より低くなることが予想されます。なぜなら、E1とE2の平均がE0となるように考えられるからです。その様子を示したのが下の「エネルギーー準位」の図です。

 

 こうして八面体錯体中では金属イオンのd軌道は高いエネルギーの軌道2つと低いエネルギーの軌道3つからなることになります。これらの軌道に普通はエネルギーの低い方から2個ずつ電子が入ることになりますが、例外的な電子配置もある。2個の電子を1つの軌道に入れる(せまいところに押し込まれるために若干の反発がある)よりも、d軌道のエネルギー分裂幅が特に小さいときはエネルギーの高い軌道方の軌道に入れてしまった方が全体としてはエネルギーが小さくなる場合があるのです。例えば5つのd電子を考えると、通常は低いd軌道三つの内2つに電子対が入り、1つに不対電子が入るが、下の図右端のように、エネルギー分裂巾が小さい場合は5つのd軌道に1つずつ電子が入る方がエネルギーは全体として低いのです。このようにd電子の数が4−7個の場合は2種類の電子配置が考えられます。低い方の3つのd軌道になるべく多くの電子を収容する場合を低スピン配置、4個目、5個目の電子を高い方のd軌道に入れる場合を高スピン配置といいます。

結晶場理論と光の吸収

  たとえばd電子が1個の場合、低い三つのd軌道の内のいずれかにd電子は存在する。ここに光があたる時を考えましょう。その光のエネルギーを電子が吸収し、それによって電子が高いエネルギーのd軌道に上がるのに十分な大きさであれば、光が吸収され、電子は高いエネルギーの方のd軌道に移動します。これが光の吸収です。d軌道のエネルギーの分裂の大きさはそれほど大きなものではありません。よって、比較的エネルギーの小さな可視光の光を吸収することになります。なお、光の内400−700nmの範囲が可視光です。例えば銅(II)の溶液は水中で[Cu(H2O)6]2+となっており、d電子は9コあります。錯体が800nm付近の光を吸収し、d電子が1つ高いエネルギーに上がることになります。どの波長の光を吸収するかをグラフにしたものを吸収スペクトルといいます。吸収スペクトルで異性体の区別などをすることも可能な場合があります。

配位子場理論

  結晶場理論によって光の吸収がある程度説明できるようになりましたが、例えば異性体による吸収スペクトルの差を説明することはできませんでした。そのため、結晶場理論を改良しより定量的な議論までできるようにしたのが配位子場理論と呼ばれるもので、この理論の発展には田辺、菅野両日本人博士が大きく貢献したのです。

錯体の励起状態の種類

八面体錯体中ではd軌道のエネルギーは2つに分裂し、光のエネルギーによって下の軌道の電子が上の軌道にあがることがあるという話はすでにしました。このように光のエネルギーによって軌道間で電子が移動することを電子遷移といいます。金属の内部の軌道間での電子遷移を金属内遷移(MC遷移)といいますが、先のd軌道間での遷移は特にd−d遷移と呼ばれています。

 これに対し、有機物でπ共役系を有する分子はπ軌道間の遷移に基づくπ―π*遷移を持っています。金属に結合してもこのπ−π*遷移がほとんど変化を受けないような場合もあります。このような場合は、金属錯体になってももとの有機物の配位子遷移のままなので、配位子内遷移(LC遷移)といいます。

 MCでもLCでもない遷移としては図に示したように、金属の軌道から配位子の軌道に電子が遷移する(あるいは逆)のタイプがありこれを電荷移動(CT)遷移と呼んでいます。

磁性

  不対電子のある物質は常磁性(わずかに磁石にくっつく性質のこと)を示します。これに対しほとんどの有機化合物と多くの身の回りの無機化合物は反磁性(わずかにわずかに磁石に反発する性質のこと)です。錯体は不対電子を多数持つものがあり、比較的強い常磁性を示すものも多くあります。強いとはいっても我々が感じるほど強く磁石に引きつけられるわけではないのですが。精密な機械で測ってわかる程度です。なお、常磁性の特別な形が強磁性であり、我々が磁石にくっつく物質と言っているのは強磁性体のことなのです。

 常磁性体が磁石に引かれるのは、磁場中で自らが磁石になる(磁化される)からであり、磁化される度合い(磁化率)は、一般には温度に反比例することが知られています。また、強磁性体はある温度以上では常磁性体としてふるまい、この温度をキュリー点といいます。この温度以下になると磁化率が急激に上昇し、我々が感じる磁石となります。