自然界と錯体(生物無機化学)

例えば我々の血液の中のヘモグロビンという物質では酸素運搬をつかさどる最も重要な部分は 鉄の錯体となっています.だから鉄が不足すると貧血になるのです. 植物の光合成の際に中心的役割を果たすクロロフィルもマグネシウムの錯体です. この光合成のおかげで我々は酸素を吸って生きているのです. 新生児用の粉ミルクの缶を見てみると,原料の欄にはなんと猛毒と思われいている硫酸銅が使われていることがわかります.つまり微量の銅は体にとって必要なものなのです. 我々は普段食べている食物から銅をほんのわずかですが摂取しているのです.

生物はほとんどのパーツが有機物からできています.有機物すなわちC, H, N, Oあたりの原子でできているのが我々の体のほとんどであり,無機元素(特に金属元素)は多くはありません.しかし,金属元素でしかできない役割もはたしているのです.例えば骨の主成分はカルシウムリン酸塩やアパタイト(Ca10(PO4)6(OH)2)であり,カルシウムは我々の骨格の形成に多量に使われています.このカルシウムのような金属元素と異なり,微量ではありますが重要な働きをしている元素も多いのです.母乳をのんでいる赤ちゃんは母乳の中にやはり微量の金属イオンが含まれているので それを摂取できます.粉ミルクだけしかのまない赤ちゃんでも必要元素が摂取できるよう 銅や亜鉛などの金属元素が粉ミルクには加えてあるのです.これらの微量元素の働きにはまだ未解明の面も多いのですが, 最近次第にこれらの重要性がますます指摘されるようになってきました.ここではいくつかの例を見ていきましょう.

 

1) 細胞内外におけるナトリウムとカリウム

多くの動物では細胞内ではカリウム濃度が細胞外より高く,逆にナトリウム濃度は細胞外の方が高くなっています.もしナトリウムイオンなどが自由に細胞の内外を行き来できるのであれば,いずれ細胞内外でイオンの濃度は等しくなるはずです.しかし上のようにそうではないのは,考えてみると大変不思議な現象です.これはATPのエネルギーを利用した巧妙な仕組みがかかわっています.例えばこのアニメを参考にして下さい.これらのイオンの濃度の変化は細胞間の信号伝達にも深く関係している.

2) ヘモグロビンとヘム

我々の血液中にはヘモグロビンがあります.ヘモグロビンは分子量64000の巨大なタンパク質分子であり,酸素を血液中で体の隅々まで運搬する働きを担っていて4つのサブユニットと呼ばれる部品からできています(左下図).これに対し筋肉中に存在し,酸素を一次貯蔵する働きがあるミオグロビンは分子量が約1万8000のタンパク質です.ミオグロビンには1つ,ヘモグロビンには4つヘムという鉄錯体が含まれています.ヘムはポルフィリンと呼ばれる環状の有機物の中に鉄が入った錯体であり,酸素分子が結合します.興味深いのはミオグロビンとヘモグロビンの酸 の結合性です.ミオグロビンは酸素分圧が増えるに従って右図のように酸素が結合していく.つまり酸素分圧の上昇と共に急激に酸素がミオグロビンに結合していきます.しかし,ヘモグロビンは,酸素分圧が低い内はあまり酸素が結合せず,ある程度酸素分圧が高くなると急激に酸素が結合するようになるという性質があるのです.肺の中と筋肉中の酸素分圧を考えると,ヘモグロビンが多量の酸素を運搬するのに有利であることが分かるでしょう.これはヘモグロビンの内の一つのユニットのヘムに酸素が結合すると他のユニットのヘムはより酸素が結合しやすいように構 が微妙に変化することによっているのです.

 

上はヘモグロビンの分子構造です.マウスでドラッグすると回転することができます.また,shiftキーを押しながらマウスを上下にドラッグさせればズーミングすることが可能です.この中にヘム分子がいるかどうか探してみて下さい.

 なお,イカなどの軟体動物中ではヘモシアニンと呼ばれる銅錯体が酸素運搬を司っています. 

3) クロロフィルと光合成

光合成はご存じの通り,二酸化炭素と水から炭水化物と酸素を作る反応です.これは非常に複雑な反応であり,光を必要とする明反応と必要としない暗反応を含んでいます.光合成は多くの分子が関わっている反応ですが,中心になるのはクロロフィルです.その分子の構造は下のとおりで,ヘムと似た構造のコリン骨格を有する錯体であり,中心にマグネシウムを含んでいます.

 

3) カルボキシペプチダーゼと亜鉛

亜鉛は多くの酵素の働きに関与しています.最も初期にその機構が解明されたのは牛のカルボキシペプチダーゼ(アミノ酸のペプチド結合を加水分解する酵素)でした.この酵素は307個のアミノ酸が結合したタンパク質であり,1個の亜鉛を含んでいます.